国語と私

 
 
 どうして手に取ったのか思い出せない本というのがある。若松英輔の「言葉の羅針盤」もそんな一冊だ。
 
 

 
 
 読んでいると、思いがけず次の引用に出会った。
 
 予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず
 
 心をくるはせる道祖神のまねきにあひて取物手につかずももひきの破れをつづり笠の緒付かへて三里に灸するより松島の月先心にかかりて
 
 
 ああ、いいな、芭蕉はやはり良い。何度読んでもこの書き出しは良い。「片雲の風にさそはれて」とか、「心くるはせる道祖神のまねき」とか、そういう表現が、出不精で、旅好きでもない私も、何となくふとしたきっかけで急にどこかへ旅立ちたくなる日常のあの瞬間を、胸の中に切実に再現して、渇いた旅情に一滴の水を垂らしてくれる。
 
 
 しかし私はどこで「奥の細道」を読んだのだろう、と考えた。この一文との偶然の再会を考えてみることにした。人間、生きているとそういうことがある。再会するものは、文章であったり、音楽であったり、あるいは何かの匂いや味であったりするのだけれど、結局のところ、私たちは、そういう時、誰かに再会しているのだ。芭蕉のその一文が、若松という著者を通じて引き合わせてくれた相手というのが、高校の時の国語教師だった。
 
 
 加藤先生が「奥の細道」を授業で扱ったのがいつだったか正確には思い出せない。私が通っていたのは中高一貫の学校だったから、中学高校と加藤先生にはお世話になった。昨年、「数学と私」という文章の中でも書いたが、私は国語がずっと得意科目で、それは小学校の時から高校卒業まで変わらなかった。
 
 
 加藤先生は、始業式明けの授業にはもう、「中間テスト、期末テストは出来上がっていて、金庫に放り込んである」と豪語するほどの人で、自分の授業と試験に絶対の自信を持っていた。たしかに彼のつくる試験は手強く、「百点は取られへんぞ」という言葉通り、私は良くて九十五点とかそのくらいが限界なのだった。答案返却の時、先生はいつも「よう研究しとるな」とニヤリと笑って手渡してくれるのだった。
 
 
 先生は大学の時、教授と喧嘩さえしなければ万葉集の研究者になっていたという。だから専門的な授業をしていたのだと思う。「平家物語」を扱った際には、木曾義仲の最期を、「史記」の「項王の最期」と対比させながら読んだ。先生が尊敬していたのは、義仲、西行、それに芭蕉ということだった。
 
 
 私が高校生になり、「奥の細道」を授業で扱った際には、鴨長明の「方丈記」のあの冒頭、
 
 
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
 
 と、「奥の細道」の冒頭、
 
 月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人也
 
 を対比し、芭蕉の長明へのリスペクト、「無常観」という日本文学の根幹を成す概念を鮮やかに示して見せた。私たちは中学生の時、加藤先生の授業で芥川の「羅生門」と「方丈記」の「飢渇」をやはり対比させながら読んでいたのだから、いかに先生が、中高一貫教育の利点を最大限に活用し、研究し、壮大な伏線を張っていたかということが判る。
 
 
 そんな先生を尊敬していた私は、進路のことなどあまり考えず、先生の古典の授業がたくさんあるらしい、ということで高三の時に「人文」コースを選んだ。文系には他に「国際」とか「社会」とかそういうのがあったと思うが、私は迷わず「人文」を選んだ。
 
 
 一クラスしかない人文コースで先生はずいぶんリラックスして、ほとんど趣味に近い題材を扱っていたように思う。覚えているのは「墨子」を一学期かけて読んだことだ。墨子の「非攻」という考えが、いかに理論的裏付けのあるものであるか、というようなことを喋っていたと思う。
 
 
 何学期だか忘れたが、例によって自信満々な先生の期末テストを解いているとき、私は設問におかしな点を見つけた。どんな誤りだったかもう覚えていない。カリカリ、という鉛筆の音だけが聞こえる静かな教室の中で、私は、カンニングと思われない程度にそれとなく周りを見渡してみた。みんな熱心に答案と向き合っている。どうしたものか。
 
 
「あの……」
 
 
 私は控えめに手を挙げ、先生を呼んだ。私は、この設問はおかしいのでは、と小さな声で訊いた。
 
 先生は、何度も問題文を見返しながら、「あれ、あれ」と言って、眼鏡を外してみたり、また問題文を指でなぞったりしながら、明らかにうろたえていた。
 
 
(先生もうろたえることがあるんやな)
 
 
 と私は思った。その時、これまで一度も百点を取らせてくれなかったことへの仕返しをした気分と、やや本気でうろたえている先生を見て申し訳ない気分がないまぜになった、何とも絶妙な感慨に浸っていたことを憶えている。
 
 
 結局そのテストでも私は百点を取れなかったのだけれど、先生が作ったテストの中で唯一、満点が百六点とかいう中途半端な数字になったということが、ちっぽけな私の勲章でもある。
 
 
 思えば、少年の頃にそんな先生から国語の授業を受けていたから、長い読書の旅を経て、こうして若松の本を手に取ったのかもしれない。