使い切るとき

 

 物事にはすべて始まりと終わりがある。当たり前のことだ。終わりは、必ずしもすべて哀しみで縁取られているわけではない。終わりを迎えるということが、それ自体が幸福になるということもある。


 モノを使い切るということの幸福を知っているだろうか。私の日記帳はいま、16冊目だが、本棚の一番下の段には、使い切られた15冊の日記帳が堂々と並んでいる。このことの幸福は、言い表しがたいものがある。ある日の日記というものは、人生の断片に過ぎない。しかし、堆積された断片は、総体と言っても差し支えない意味を帯びてくる。私は私の人生のある側面からの総体を、物質として眺めることができるし、手を伸ばせば、適当な日付のある一日を、文字を手掛かりに鮮やかに思い出すことができる。使い切られた日記帳には、新品や現在進行中のそれには抱き得ない、不思議な愛着が湧くものだ。


 などと云う一方で、抽斗の中には使い切っていない大量のノートが眠っている。色とりどりのノートには、様々なタイトルが大きく溌剌とした字で書かれているが、いざページをめくってみると、1、2ページ何か書いてあるだけで終わっている。何かを勉強しようとした、あるいは何かを表現しようとした痕跡だけが残っている。たまに本当に暇な時に抽斗を開けてそんなノートをつまんでぱらぱらとめくってみることがあるが、むしろ、そんなやりかけのノートの方に自分の人生を感じる。


 最後の手帳はきっと中途半端な日付で終わる。きっと世界中の誰の最後の手帳も、やりかけのまま、やり残したままの事柄が書き留められたままその主の棺に収められるのだろう。別に死ぬ時に限らないが、人生には、やり残したままのこと、途中で終わってしまうことの方が確実に多い。悔しかったり、悲しかったり、あるいは怒りをただ残すだけのような終わり方もあっただろう。そんな人生だから、モノを使い切った時には、それが何であれ、小さいが、稀で、大切な思い出を心に残すのかもしれない。