音楽と語学

 

 大学生の時、新町ではイタリア語の授業をやっているらしいということで、興味本位で取っていた。何やかんやで二、三年くらいはお世話になったと思うが、動詞の活用なんかはほとんど忘れてしまった。いま、聞き取ったり喋ったりはとてもできないけれど、文章を読めば「ああ、これはスペイン語じゃなくてイタリア語だな」ということが、断言できる程度にはわかる。

 

 ある時、そのイタリア語の先生が、

 

音楽大学にもイタリア語教えに行ってんねんけど、あの子らは会話とか発音はすぐ覚えるんやな。やっぱり、音楽やってるとスーって入っていくんやろね。文法はアレやけど」

 

 というようなことを言っていた。

 

 ところで、当時、私はフランス語も勉強していた。色んな先生に習ったが、マリモみたいな顔なので、マリモと呼ばれていたことで有名だった先生も、似たようなことを言っていた。私はそのとき、その先生に週一回フランス語の文法を教えてもらっていたのだが、先生は大変やさしい人で、私がフランスに留学してみたい、と告げると、授業の時間が余った時に、発音やら会話のことも親切に教えてくれていた。今思い起こすと考えられないくらい贅沢な時間だったが、なにせ履修している生徒が一人しかいなかったのだ。

 

「若山くんは、やはり、トロンボーンをやっているおかげか、耳が非常にいいですね。発音がとても正確ですね」

 

 などと言って褒めてくれた。語学の教師というものは、意識的か無意識的にかは別にして、ありとあらゆる方法で生徒を褒め、おだてる方法を熟知している専門家のようなものだから、それも単なるお世辞のようなものだったのかもしれないが、その時の私は褒められて機嫌をよくして奮起したのである。

 

 巡り巡って何の因果か中学生やら高校生に英語を教えたりして糊口を凌ぐようになってしまった今、そんなことを思い出したりしている。

 

 英語。中高通じて別に得意科目だったわけではない。ただ、「海外に出てみたい」と漠然と思っていた大学生当時、英語はそれなりに勉強した。2年生の時には、アメリカ人の元新聞記者という人のゼミに毎週出ていて、直で触れながらアメリカ英語の発音を身につけたつもりだった。

 

 そのあとフランスに留学して、一年間ほとんどフランス語しか話さない修行を続け、無事日本に帰国したあとで、何かの拍子に英語を話さざるを得ない機会があったときに、自分の口からこぼれ出た英語に愕然とした。それはもはや英語とは呼びようがない代物であった。フランス語で言うところの、「フラングレ」崩れ、つまりひどいフランス訛の英語であった。どういう仕組みでそうなったのかはわからないが、ある程度身につけたと思っていたアメリカ英語の発音は、一年間のフランス生活、フランス語漬けによって、完全に体系的に破壊されていた。フランス人にその悩みを打ち明け、「じゃあちょっと英語喋ってごらんよ」と言われて試しに喋ってみると、爆笑されるという始末である。

 

 しかしよくよく考えてみるとこれはあり得る話で、たとえば、子供の頃、父親の実家である徳島に帰ったときなど、父親が喋る言葉は普段家庭で話している大阪弁とはちょっと違い、ほんのりと四国のアクセントの香りがあった。要するに言語というものは、ひどく影響されやすい、ということだ。

 

 かといって英語の文法や語彙をからっきし忘れてしまったわけではないので、たとえば英語を教えるという段になっても、取り立てて困ると言うことはなかった。むしろ、変な話だが、流暢に喋り、理解できるようにはなっていた。しかし最近になって、Netflixなんかでアメリカのドラマを日常的に観るようになると、ううむ、カッコいいなぁ、やはりあの英語の発音というものを手に入れてみたい、喋れるようになるまでは死ねんな、などということを考えるようになった。

 

 それであわよくば生徒に還元しようという腹づもりで、少し発音の勉強などしてみようと思い立ち、書店に行って英語の発音規則が書いてある、いわゆる「フォニックス」の本を2、3冊買って読んでみた。CDがついているやつで、聞き流して練習してみると、案外簡単に発音が矯正されていく気がした。子音と母音とRの発音、それから音声変化の基礎を一通りさらって、VOAあたりの英語を真似して喋ってみて、録音して聴いてみると、謎のフランス訛はだいぶ改善されたような気がする。(とはいえ聞く人が聞けばまだ訛が抜けきってはいないようではあるが)

 

 それに気を良くして生徒に発音の稽古でもつけてやろうと考え、いろいろと方法を練っていると、「シャドーイング」(発音を聞いてすぐ真似をする)「ディクテーション」(聞き取ってメモをする)「オーバーラップ」(ネイティブの音声に合わせて一緒に発音する)などの方法を思い出し、実践していたのだが、ふと、あることに気がついたのである。

 

 これはほとんど、楽器の練習と同じなのではないか?

 

 そう思ったのも、先述したフォニックスの教科書の最初に、「s」の発音の練習が載っているのだが、そこには「ロングトーンしましょう」と書いてあったのがきっかけだ。ロングトーンといえば、有効性があるかどうかは議論があるところだが、楽器、とくに管楽器にとっては基本中の基本である。その本によると、まずは「発音の」ロングトーンをすることが最初の一歩らしいのだ。

 

 ディクテーション(書き取り)なんかはまさに聴音で、音楽でいうところのいわゆるソルフェージュのあれやこれやというのは、そのまんまリスニングの練習であろう。弦楽器や鍵盤楽器も似たようなところがあるだろうが、たとえばレガートのニュアンスであるとか、スタッカートとか、アクセントであるとか、いわゆるアーティキューレーションに関わるさまざまなことは、語学の発音練習と大差ない。と、いうか、複雑な和音を聞き取ったり、ハイテンポな変拍子に適応したりする、つまり合奏レベルでの聴音ということになると、どんなに難しくても常に単音でしかない語学の練習よりはるかに高度な技術が要請されていることは言うまでもない。

 

 つまり、イタリア語の先生やフランス語の先生が言っていたことは、「耳が良い」ことも多分そうなのだが、「楽器の練習の方法」が、「語学の練習の方法」をほとんど包含しているので、楽器経験者は語学習得をアナロジーで容易に捉えられる、ということなんではなかろうか、と思ったのである。

 

 そう考えると、英語とフランス語はいわば「似ている別の楽器」のようなものだから、一年間フランス語しか練習しなければ、英語の発音がことごとく破壊されたのもうなずけるわけだ。クラリネット奏者が一年間サックスだけを吹かされていれば、恐ろしく調子が狂うはずである。

 

 逆の見地から考えてみると、楽器をはじめばかりの頃から、先輩たちには「プロが演奏しているCDを沢山聴け」とよく言われた。それは語学に置き換えてみると、ネイティブの発音を聞いてみようね、ということだから、至極当然、非常に合理的なアドヴァイスだったということになる。

 

 というわけで、公民館でやってるカルチャースクールの惹句のようではあるが、「語学」というよりも、「語楽」と言ってもよいのかもしれない。酷いオチだ。