外国で生活することについて

 

 留学生のルーツをたとえば空海最澄に求めることは無理のある議論だろうか。かつてこの国では留学生ではなく留学僧(るがくしょう)という存在があった。留学僧はおよそ二十年のスパンで中国に住み、そこで勉強して帰国してからは国の根本のところで教えを伝えるという役割があった。空海は留学僧だった。しかし彼は二十年ではなく、二年で帰国して真言宗をひらいた。

 それに対して最澄は還学僧(げんがくしょう)と呼ばれるタイプの留学生だった。こちらは現在の大学生が行う留学と同じように、半年なり一年のスパンで中国の文化を吸収する役目を負った存在だった。彼は空海と同じ船で中国に渡り、一年後に帰国して天台宗をひらいた。

 この還学僧という言葉が、私は好きである。外国で学び、それを還元する存在という意味が、この言葉には残っている。しかしもう死んでしまったような言葉ではある。私の他に使う人に会ったことがないが、私は現代の留学を語る際、しつこくこの言葉を使用する。

 

 さて、話は変わる。日本人にとっては余り珍しくないことだろうが、自分のアイデンティティーをひとつの国に求めるということは、ある意味では幸せなことなのかもしれない。世界には、自分の住んでいる国、あるいは所持している国籍を管轄している国が、自らの考えるアイデンティティーに結びつかないという人がたくさんいるはずである。海外で生活してみると、こういったことについて考えさせられる機会が多くある。

 

 現代では、世界中に共通のものが、空気以外にも多く見られるようになった。世界中だいたいどこに行ってもマクドナルドはあるし、日本で聴いたことがある音楽を地球の反対側で耳にすることもある。いわゆるグローバリゼーションである。マクルーハンはグローバル・ヴィレッジと呼んだし、フランシス・フクヤマは歴史の終わりと呼んだかもしれない光景だ。海外で生活するということが余り珍しくなくなってきているということは、同時に、その海外生活者の生活環境が少しずつ均一化されるということでもある。ましてや我々の掌のうちにはインターネットというものがある。ウクライナやブラジルや中央アフリカ共和国で起こっていることだって、数秒差、ほとんどリアルタイムと言っていい臨場感で知ることができる。

 

 相対的に、留学という経験の価値も低下していくだろう。留学がしやすくなり、海外で生活することのギャップが減るということは、たとえば勉強に集中しやすい、活動を行いやすいといったメリットもあるのだが、「還学生」と母国で貴重がられた過去のような存在ではないということ示している。

 

 つまり、いま海外に留学する者は安売りされがちな留学の価値というものを自分なりに把握しなければならくなってきているのだ。均一化されていく世界の中では、留学に新たな価値が付加されると考えるのは難しいのではないか。それは反比例の関係にある。時代が進むに連れて、価値は減じていくと私は思う。なぜならどこにいても学べる、体験できる、そういった状況が今後ますます加速していくだろうから。

 だから古い価値に目を向けなければならない。

 もっとも古典的な留学の価値とは、アイデンティティーの喪失である。自我を形成する段階で育った入れ物の中で最も大きなもの、すなわち「国」を飛び出して、違う入れ物の中で自分のアイデンティティーを再獲得する試み。それこそが留学の醍醐味であるし、これはおそらく二千年後も変わることがない。

 

 留学とはパラドックスなのだ。何かを得ようとしてするアクションなのではなく、失うためにするのである。

 

 

 

※次回は「外国語を学ぶことについて」です。