王道なき時代

 

 

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 小学生の頃、ファイナルファンタジー7というゲームににハマっていた。当時すでに、「少し昔」のゲームだったのだが、なぜか小学校のクラス内で爆発的に流行し、毎日活発に情報交換が行われていた。いま考えると、小学校のクラスって、かなり変だ。今度、それのリメイク版が出るという。もう「かなり昔」のゲームになる。でも、出たらすぐ買うし、寝食を忘れてプレイすると思う。

 

 なぜ、FF7のリメイクに、今頃ワクワクしているんだろう。やり尽くしたゲームで、筋もそらで言えるほどに覚えている。「解体真書」はまだ実家にあると思うが、隅々まで舐め尽くすように読んだ。サントラも当然持っていて、「空駆けるハイウインド」や「エアリスのテーマ」やその他色々、いまだにプレイリストに入っていて、定期的に聴いている。

 

 本当にやり込んだRPGというと「ファイナルファンタジー7」と「幻想水滸伝2」で、次点が「FF9」「幻水3」「DQ5」「DQ7」あたりになる。とくに幻想水滸伝2は思い出深い。なぜあそこまで入り込めたのか、というのを考えると、まず第一は音楽だろう。私の音楽好きは、たぶんここから始まった。もしこれらの作品をプレイしていなければ、吹奏楽部のドアを叩いていなかった。子供の頃、楽器の類は全く習っていなかったし、楽譜も一切読めなかったけれど、ゲーム音楽を通じて音楽、とくにクラシック音楽の世界に入っていったように思う。

 

 

 

 RPGは、「物語」が基本要素だった。まず「物語を楽しむもの」であり、次いでビジュアルと音楽を楽しむもの、堪能するものだった。私にとっては、最後にゲーム的要素、育成、宝探し、図鑑完成、などがあった。

 

 RPGはオペラや映画に近い。自前の筋があり、自前の絵があり、自前の音楽があり、自前のシステムがある。ワーグナーが今生きていれば、おそらくRPGを見て「お、これは総合芸術やんか」と呟くだろう。というか、ワーグナーがいなければRPGは生まれなかったかもしれないのだが。

 

 オペラや映画に近いのだが、それらと決定的に違うのは、自分がその世界に実際に入ってゆき、主人公になりきってプレイできるというところにある。体験型の総合芸術、とでも言えばよいのだろうか。

 

 

 RPGというジャンルが爛熟したのは、ハードで言えば、スーパーファミコンからPS2にかけての時代だろう。この時代、「名作」と言われるRPGが沢山でてきた。さらに時代が進むと、ハードはインターネットに接続した。これによってゲームの要素は増えてゆく。先述した「図鑑完成」などに加えて、リアルタイムでの「協力」「競争」の要素が加わった。ソーシャルゲームの時代である。

 

 そのことによって「物語」は衰退したのかもしれない。なぜなら「物語」は提供される必要がなく、友人同士で創り上げていくものになったからだ。ゲームが提供するのは「舞台」に置き換わった。

 

 

 

 RPGを発展させた要素は色々あるだろうが、テクノロジーが最も大きいだろう。

 

 テクノロジーに刺激された文化は、新しい領域をいくつも切り開き、ある一定のところまで進むと、停止し、完成する。そしてそこで新しい「文化」として定着する。

 

 たとえば、私たちはいまだにクラシック音楽のコンサートで十九世紀の音楽を聴いている。このことを批判することも可能だが、ある形式の音楽は十九世紀で完成したとも言える。それが好きな人は好きなのだし、それが文化というものだ。

 

 私たちはシャツを着たりするが、そのシャツの形式が完成したのはだいぶ前だと思う。そのことを批判する人はいないはずだ。これは、シャツが文化として完成していることの証である。

 

 あるいは、料理でもいい。寿司という形式が完成したのもだいぶ前の話だろう。私たちが食べている寿司は100年前の人が食べていた寿司と大差ないはず(もちろん、味の変化はいろいろありそうだけど、形式としては)だ。

 

 もちろん、日々新しい服ができ、新しい料理が考案され、新しい音楽が紡がれている。しかし、作り出すということと、定着する、すなわち評価され時代を超えて残り続けるということは、別の話である。

 

 ではRPGはどうかというと、ゲームというもの自体が、テクノロジーと文化の結節点のような場所に位置しているものだから、発展と完成を日々繰り返しているように思える。

 

 もともとゲームに「物語」はなかったはずだが、テクノロジーの進歩で、より細密な絵が、より多彩な音楽が、より複雑な情報処理が可能になった結果、「込み入った物語を入れられるのではないか」となった。

 

 この時点では、RPGはまったく文化ではなかった。未知の試みだった。それは、フランツ・リストが「交響詩」と呼ばれる形式の作品を初めて書いた時に近いものがあるかもしれない。やがてRPGは音楽と同じように、広がり、発展し、爛熟し、そして腐っていった。

 

 

 我々がファイナルファンタジー7のリメイクを心待ちにし、延期の発表にムズムズするのは、単なるノスタルジーであるとともに、あれを超えるRPGに出会えていないことを意味している。

 

 twitterに出てくるスマホゲームの広告に、「王道RPG」などと書かれていて違和感を覚えるのは、おそらく私たちの世代以上の人々だろう。いまスマホゲームを楽しむ世代は、「王道」が何であるかを知っているのだ。それが記号として機能するということが証左だ。このことは、すでにRPGというものが完成し、文化として定着したということを証明している。なぜ私が違和感を覚えるかというと、「王道」のない時代を知っているからだ。