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教育の未来を描く 中室牧子著 学力の経済学

 かつてプラトンは、師ソクラテスプロタゴラスとの議論を描く際、アテナイ人が議会に集まって議論をする様子を描写した。ソクラテス曰く、市民が土木建築に関する議論をするときは、建築家を招き、造船に関する場合は造船の専門家を呼ぶ。それらの専門家でない者が口を挟もうとすれば――いくら風采が立派で、金持ちで、家柄が良くても――アテナイの市民はその人を壇から引きずり下ろし、嘲笑するという。

 

 ……事柄が専門的技術に属すると思う場合には、彼らはこのような態度を取るわけですが、これがひとたび、何か国事の処理を審議しなければならないような場合になると、大工でも、鍛冶屋でも靴屋でも、商人でも船主でも、貧富貴賤を問わず、誰でも同じように立って、それらについて人々に向かって意見を述べます。そして、そういう人たちに対して、先の場合のように、どこからも学ばず、誰ひとり先生についたこともないくせに意見を述べようとするといって非難するような者は、誰もいません。ほかでもない、これは明らかに、人々はそういう事柄を、教えられうるものとは考えていないからです。(『プロタゴラスプラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫p.38-39 1988年)

 

 ソクラテスプロタゴラスが議論していたのは、「徳」は教えられるか、ということであり、徳に関する限り、アテナイの市民は誰もが口を挟むことができたし、それを非難するものはいないとソクラテスは考えた。それは、「徳」は教えられるものではないとアテナイの市民が考えていた証拠でもある。


 ではこれを教育に置き換えてみてはどうだろうか。おそらく、同じことが起きている。教育に関することは、教育の専門家でもないのに、誰もが一家言ある、という状況だ。またそれが正当化される現状がある(あなたの身近な本屋に行ってみれば、教育の専門家ではない人が書いた教育についての本がないだろうか?)。教育を受けることと、教育を行うことはまったく違う。橋を渡るのと橋を作るのがまったく別であることであるのと同じように。このことは、「教育に関する技術」というものを、人々が「教えられるものではない」と考えていることの証拠なのではないだろうか?

 

 中室牧子の「学力の経済学」は、まさにそのような教育の現状を描き出した本である。

 

 


 この本が主張することはただひとつである。それは「教育はデータで語ることができる」ということだ。

 

 教育経済学という分野があることを、恥ずかしながら私も知らなかった。教育学というと、教育に関する技術を追求する学問しかないのではと思っていたくらいだ。こどもの心理学的な話はいくらでも聞いたことがあるが、経済学的アプローチも存在するのだ。

 

 たとえば、「教育の収益率」という概念がある。教育を一年追加することで、そのこどもの将来の年収がどれだけ高くなるかを示した数値だ。この本によると、教育の収益率は、株や債券に投資するよりも収益率が高いらしい。

 

 筆者が強調するのは、「実験」の必要性だ。
 海外の教育経済学の分野では、大掛かりな実験が多数行われている。たとえば、こども同士の影響に関する実験だ。その実験の結果、「学力の高いこどもの影響を受けやすいのは、もともと学力が高いこどもだけで、学力の低いこどもには逆にマイナスになる」というようなことが明らかになってくる。この本の中では、そういった実験の事例が豊富に紹介されている。それらは実験だから、きちんとした証拠(エビデンス)があるわけだ。自分のこどもを育ててこうやったらうまく行った、というようなこととはデータのレベルが違う。

 

 正直、耳の痛い話もいくつかある。
 学力はほとんど遺伝するとかいった話もある(これはなかなか辛い)。個人的に面白かったのは、「夏休みの宿題」に関する研究だ。
 これもデータがある話なので厄介(?)なのだが、本書いわく、「夏休みの宿題をあとになってやるこどもは、将来、喫煙・飲酒・ギャンブルの習慣・借金をつくる確率が高い」のだそうだ。おまけに太っている確率も高いらしい。残念な話だ。

 

 そういった事例の紹介のあと、現状の教育を良くするためには、どういったことが必要なのか、筆者はいくつか提案している。


 その中のひとつが、「教育の参入障壁を低くする」ということだ。要するに、免許制度を撤廃してはどうかということだ。これも実験あっての話だ。
 アメリカのTFA(Teach For America)という団体は、米国内の一流大学の卒業生を、卒業後2年間、低学力に悩む公立学校に派遣するというプログラムを実施した。これらの派遣された人々は、教員免許を保有していない。


 この結果、教員免許を保有しない教員が教えた生徒は、教員免許を保有する教員に教えられた生徒に比べ成績がよいか、成績には差がないということが明らかになった。
 要するに、教員免許の有無というものは、学力に関してあまり問題にならないのではないかということだ。それならば、教えることに関して優秀な人間をもっと教育の場に呼び込むことが重要なのだ。それゆえ、教員免許制度の撤廃というのは魅力的な政策になりうる。

 

 しかし最も残念なことは、教育に関するデータが、日本では少ないということだ。文科省は教員に関する統計を取ってはいるのだが、「どの教員がどの生徒を教えたか」というデータがないため、学力調査のデータと接続できないという。
 では、今すぐにでも教育に関する統計を有効活用できるよう、整備を進めるべきではないのか……と思っていると、こんな記事を目にした。

 

 

mainichi.jp

 

 

 どうも、そういう方向で話が進んでいるようである。この政策にこの著者が関わっているかどうかはわからないのだが、関わっていなかったとしても、教育の未来は進路が決まったらしい。その未来を描いた最初の本が、この本であるということなのだ。