ドラマ「沈まぬ太陽」を見終えて 音楽描写について

 

 

 テレビドラマというものは、おそらく現代の鏡のような役割を果たしていると思うのだが、それにしても、ずいぶんと見なくなった。鏡なんか見なくても、自分の顔つきくらいわかっている、という傲慢さがあるわけではないのだが、どうも「見たいドラマ」というのがあんまりない。二十代も半ばを過ぎるとそうなのかもしれない(しかし、テレビドラマというのは多くの場合二十代~三十代あたりをターゲットに作られていると思うのだが)。


 この半年、見ているドラマといえば、NHKで再放送している「てるてる家族」とWOWOWの「沈まぬ太陽」くらいだ。「てるてる家族」のほうは、いずれまた書きたいと思うが、本当に良いドラマである。私自身が大阪人のせいもあると思うが、大阪放送局制作の連ドラをどうも贔屓にみてしまう(「カーネーション」とか)。良いと思うのだが、こちらは再放送である。もしかすると、ドラマというのも、ウイスキーみたいに、少し時間が経つと面白くなるのかもしれない。


 今の日本において、最高のテレビドラマの作り手はWOWOWに集結していると言っても過言ではないだろう。「ダブルフェイス」「マークスの山」「レディ・ジョーカー」「空飛ぶタイヤ」「下町ロケット」……どれも非常にクオリティの高いドラマばかりだった。


 今回「沈まぬ太陽」を見始めたのは、少し前にも書いたが、「白い巨塔」の影響である。私はドラマ(フジテレビ制作2003年)「白い巨塔」の大ファンで、通して十回くらい観たし、原作も三度ほど通読している。「沈まぬ太陽」はドラマと平行して原作を読みだしてはいるが、まだ読み終えていない。「マークスの山」「レディ・ジョーカー」で主演した上川隆也山崎豊子の最高傑作と名高い「沈まぬ太陽」の主演をするとあって、これは見ないわけにはいかない、と思ったのである。


 ひとつ思ったのは、このドラマが、実に原作に忠実に作られているということだ。寸分違わず、とまではいかないものの、原作からカットしたシーンを除けば、台詞も、情景の描写も、山崎豊子の小説をあとで読むと、むしろドラマを小説化したのではないかと思えてくるような忠実さだ。私はかねがね思っているのだが、原作付きのドラマの面白さというのは、どれだけ原作に忠実であるかにかかっていると思う。保守的な意見かもしれない。しかし、楽譜に忠実な演奏が良い演奏であるように、原作で完成されている物語を映像化する段階においては、そのことに心血が注がれているかが、どれだけ劇的な効果を生むかということに、ある程度比例してくるような気がしている。なんなら、数値化できるんじゃないかとさえ思う。


 まず書いておきたいことは、劇中の音楽のことについてだ。堂本が家でレコードを書けている印象的なシーンがある。ドラマの方でも数回あるシーンだが、ここで流されているレコードはいずれもショパンエチュード「革命」である。実はこれは原作には存在しない描写である。


 ここに制作側の意図を深読みすると、堂本という、左翼運動から転向したことで国民航空の権力を握った男への皮肉が感じられる。堂本は、はじめから「節を曲げた男」として描かれている。その対極に位置するのが、もちろん、「節を曲げなかった男」恩地元なわけだ。その堂本が、「革命」を聴いている。そこに、ある種の皮肉があるわけだ。革命に憧れ、挫折した男のねじれが感じられる。この描写があってこそ、あの名シーン(と言っても良いと思う)、国民航空を辞職して隠居した堂本が、御巣鷹の事故の慰霊式典で、恩地に「君に嫉妬していたようだ」と声を掛け、邂逅するシーンが実に立体的に演出されてくるのである。


 では原作では堂本は何を聴いていたのかということが気になってくる。たとえば、行天が入院のお礼を言いに堂本邸をたずねた際の描写である。

 

「ああ、君か――」
 堂本は、さして驚くふうもなく、レコードをかけ替え、音量を絞った。
「せっかくのお寛ぎの休日に、お邪魔を致します」
 行天が詫びると、堂本はそれには応えず、
ショパンノクターンだ、演奏はルービンシュタイン、どうかね」
「はぁ、ショパンですか、ショパンはもう少し軽快と思っておりましたので――」
 返答に窮すると、堂本はそれにも応えず、重厚なステレオ・キャビネットを指し、
「半年前、イギリスから取り寄せた『デッカ』だ、日本にはそうざらにない」(『沈まぬ太陽』一巻 p.187)

 とある。少なくともエチュード「革命」ではないから、ドラマの制作者がノクターンよりもエチュードに差し替えた明確な意図が感じられる。


 次は、恩地の帰国が決まった後のシーンである。

 

 北鎌倉の自宅の書斎で堂本信介は、肘が擦り切れたソファに坐り、ステレオから流れるマーラー交響曲第一番に聴き入っていた。
 カッコウの啼き声が、澄んだ森に美しく響きわたり、暫く牧歌的なメロディが続いたかと思うと、やがてラッパが鳴り響き、強烈なティンパニーの連打へと、旋律がうねって行く。
 クラシック・マニアの堂本がイギリスから取り寄せた「デッカ」のステレオ・プレーヤーから響く音は、さながら生演奏のようであった。都労委の命令が出た今日のような苛だたしい夜は、帰宅してから音楽に浸るのが、常だった。
「あなた、只今――」
 結城の単衣をきりっと着こなした妻が観劇から帰って来、ステレオの音量を低くした。
「銀座四丁目で電光掲示板のニュースを見ましたわよ、それで苛々しているんでしょう」
 戦前のブルジョワの娘で、左翼かぶれして、堂本と結婚しただけに、普通の主婦とは趣が異る。
 堂本はそれには答えず、音量を元に戻した。マーラーは、堂本のお気に入りの一人だった。
「八馬さんたちがいらしてるのよ、お約束があったんですか」
「いや……、ちょっと待たせておけ」
 佳境に入ったところだっただけに、堂本は聴き続けた。(『沈まぬ太陽』二巻 p.344)

 

 こちらでは堂本は、マーラー交響曲第一番「巨人」を聴いている。山崎豊子がどのような含意でこれを書いたのかは不明だが、マーラーの中でも一番は、比較的「元気の出る」曲であるように思えるから、現実逃避したい堂本の心情を表現したとみることもできる。


 この場面もドラマでは、ショパンエチュード「革命」が流されている。

 

 音楽を例に取ってみると、このように演出されている箇所があるが、それが原作の良さを少しも損なっていない。むしろ悲劇的なショパンの「革命」(勇壮なショスタコーヴィチの「いわゆる革命交響曲」ではなく)を持ち出すことで、堂本のキャラクターが引き立てられたと言っても良いだろう。

 

 政治小説としての「沈まぬ太陽」に関するエントリはこちら。 

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