「沈まぬ太陽」が表現したかったもの 日本的政治の遠近法

 

 

 WOWOWで放送されたドラマ「沈まぬ太陽」は、もしテレビドラマ史というものを書くとすれば、2010年代の頁を書くのに必須のタイトルとなるだろう。それほどまでに素晴らしいフィクションであった。ドラマの作り手に敬意を表すると同時に、現代にまで鋭く届く作品を書いた山崎豊子の炯眼にも驚きを隠せない。

 

 さて、ドラマ「沈まぬ太陽」は――あまりに原作に忠実なドラマなので、もちろん原作が、ということでもあるが――何を描こうとした物語だったのか。

 

 端的に言えば、「沈まぬ太陽」は、政治についての物語である。それも、政治を痛烈に批判した物語なのだ。今作は約20年前に書かれた物語だ。しかし今もなお映画化やドラマ化がされるということは、その物語の伝えようとしていることが、いささかも古びていない、すなわち、普遍性のある政治批判を内包している作品であるということが言える。山崎の「白い巨塔」が、生命の尊厳についての残酷な問いかけを半世紀に渡って行ってきたように、「沈まぬ太陽」もまた、古典として時の洗練に耐えうる威容を備えた作品なのだ。

 

 その政治批判は、まず恩地元という人物が遭遇する大企業の不当人事という形で表現される。


 恩地元は、国民航空の労働組合の委員長として、ストライキを主導した。それゆえ上層部に睨まれ、エリートコースである予算部からカラチ、テヘラン、ナイロビへと飛ばされ、その海外生活は10年に及んだ。山崎は「現代の流刑」を描こうとしたと書いている。


 しかし実は、ここで見落としてはならないのは、恩地が自主的に労働組合の委員長になったわけではないということだ。たしかに恩地は学生時代から反権力的な運動に身を投じていたわけで、国民航空に入社したあとも組合活動に参加していた。しかし恩地自身は、10年は仕事に専念したいと、労働組合の委員長には立候補しなかった。そこで出てくるのが前任の八馬忠次である。八馬が恩地を半ば強制的に委員長に仕立て上げたのだ。恩地はしぶしぶ委員長の職に就くことになる。


 この、「半強制的に委任された職責」という点が極めて重要である。八馬の思惑としては、恩地には「それなりに」うまく委員長をやって、会社の意を汲みつつやってくれれば、自身の顔も立ち、出世にプラスの影響があると踏んだのだ。


 しかし自由意志を伴わず就任したにも関わらず、恩地は「正しく」委員長の職責を全うしてしまう。八馬からすれば、推したものの立場がない、という風になる。この矛盾こそが日本政治の批判の核心であると私は考えている。実は、「沈まぬ太陽」という物語は、この点を執拗に描いているのだ。

 

 少し話は脇に逸れるが、この恩地のカウンターパートとして描かれているのは、実は行天四郎ではなく、のちに社長になる堂本である。恩地は、「節を曲げずに正しいことを行い、そのせいで潰されてしまう」という役柄だが、それに対して堂本は「節を曲げた人間」として描かれている。堂本も恩地と同じく、学生運動に身を投じた者だ。しかし彼は、学生時代に逮捕され、いわゆる「転向」を経験する。国民航空ではむしろその経歴を買われ、恩地率いる労働組合の弱体化に重要な役割を果たす。


 私が思うに、恩地の対旋律は堂本なのだ。行天は、ある意味では恩地の分身ともいえる。ある一点から全く違う道を選んでしまった行天。しかしその一点までは、恩地は行天とともにあったのだ。この点が、「白い巨塔」での里見と財前の描き方とは決定的に違うところだ。財前と里見は、二人とも医学の発展に尽くすという点で最後まで同じ道を行っていた。ただ、この点は実は、ドラマと原作で最も相違する点で、ドラマ版では「白い巨塔」的な描き方――すなわち、恩地も行天も同じように会社を大切に考えて行動した――という風に描かれていた。原作での行天の描き方は、もっと冷徹で残酷である。まさしく天と地の距離を感じさせる描き方になっている。行天に対する救済は何ら行われない。

 

 さて、話を元に戻そう。「半強制的に就任したにも関わらず正しく職責を全うしようとして潰される」という構造は、そのまま国見の会長就任の一幕に相似形として現れる。


 御巣鷹山の事故で崩壊寸前に陥った国民航空の再建を託すべき人物として、国見は登場する。重要な点だが、国見ははじめ断ったのである。しかし総理から――すなわち日本政治の最高責任者から――三顧の礼を持って迎えられ、国民航空の会長に就任する。
 国見もまた恩地と同じように、正しいことをしようとしては妨害に遭う。「出る杭は打たれる」を地で行くような物語である。その国見を動かしたのは、総理のバックアップがあるという安心感からであった。


 そしてこれが最も残酷な点なのだが、その国見は総理によって会長の座から引きずり降ろされる。自ら依頼し、都合が悪くなったら自ら廃すのだ。このような構造を持つ作品に、政治批判がないとはとても言えない。この日本政治の致命的な性質、すなわち、正しいことを執行しようとする者を犠牲として、その白い屍の山の上に漆黒の権威を築くという性質が、国家による行為として描かれているのだ。はじめ国民航空の中で、恩地(ともちろんその家族)を犠牲にして描かれたこの構造は、国家という枠組みの中で、国見(つまり関西紡績という会社とその栄誉)を犠牲にして描かれ、拡大され、輻輳された形で再現されているのだ。国家と会社の対比という独特の遠近法によってこの複雑な主題を描いたのが「沈まぬ太陽」という作品である。

 

 そういった主題が二度出現するという事実は、山崎の本当に描きたかったことを明確に示している。つまり、政治への深い絶望だ。 


 私が繰り返し用いている「政治」という言葉は、何も企業や国家のことだけではない。小さい集団でも政治は行われている。アリストテレスが見抜いていたように、人間というのは政治を必要とする種だ。水や空気を必要とするのと同じように、政治を必要としている。しかし実際、それに自覚的ではない人も多い。

 

 しかし、あなたも似たような経験をしたことがないだろうか。


 一定数の人間が集まる集団で生活したことがあるなら、このような構造を感じたことがないだろうか。つまり、正しいことを行おうとする人間が犠牲になり、その集団が存続していく事態を。


 あなたは犠牲にならなかったかもしれない。あるいは犠牲を強いた側かもしれない。そしてもちろん、そのどちらでもなかったかもしれない。しかしいずれにせよ、集団の中にあったことがある人なら、例外なく経験している事態であろう。これが「沈まぬ太陽」が普遍的な物語である証拠だ。

 

 余談ではあるが、山崎作品の登場人物の名前に注目するのもなかなか面白い。


 財前と里見という名前の対比も見事だが、恩地と行天という対比も興味深い。なぜなら「太陽」は天から地へと沈んでゆくからだ。「沈まぬ太陽」というタイトルは、恩地の勝利を意味するわけでも、行天の敗北を意味するわけでもない、ということだろうか。


 国見という名前にも、意図を感じる。大阪人であった山崎にとって、高津宮の国見の故事は念頭にあっただろう。国見は「大阪から来た王」としてはじめから描かれていたのだ。


 数字に注目するのも良いかもしれない。「白い巨塔」では財前五郎に、里見脩二という数字の対比があった。「沈まぬ太陽」では、恩地元(つまり一を表す)と行天四郎だ。偶数と奇数のバランスを取ったのだろうか。偶然ではないだろう。いずれにせよこういう楽しみかたは、漢字文化圏でしか感じられないものだろう。

 

 こういったドラマは、人生でそう何度も巡り会えるものではない。多くの人に是非見て欲しいと願っている。