未来の楽しみを思い浮かべているとき

 

 楽しいことを思い浮かべているあいだは、その人はやはり幸福であるといえるだろう。実際に、その時に何か楽しいことがなくても、思っているだけで幸せになれるものだ。しかしこの幸福についても、二つの種類があると思う。

 

 ひとつは、過去の楽しかったことを思い浮かべているときだ。美しい思い出。苦い思い出も沢山あるが、楽しかった過去を思うと、つい口元が緩む。これは、主に、現在の苦痛を和らげるのに効果があるようだ。現在が面白くない人ほど古き良き時代の思い出を語る。

 

 これには実用的な効能もある。最近ではそういうこともほとんどなくなったが、もっと若い頃、私は酒場で吐きそうになるくらいまで飲んでいたことがある。若気の至りというやつだ。そういう時に、トイレに駆け込んで、便座の前でしばらく唸る羽目になる。そのときに私はよく、わずかな古き良き思い出を一つずつ、順番に思い出してその苦しい時間を乗り切ろうとした。人間の心のはたらきとは本当に不思議なものだ。しかしこれは、人間の体と心が分かち難く結びついているということの(体を心が励ましているような)一種の証拠ではあるだろう。

 

 我々の体を日々、前へ前へと動かしているものは、どちらかといえば、過去ではなく、未来の楽しみを思う時間だろう。一週間先、一ヶ月先、半年先の楽しみな予定を考えているとき、私たちはこれから訪れるであろう幸福の香りをそっと嗅いで、明日への活力としているのだ。

 

 しかしそういった幸福は、悲しいかな、ある一定の年齢を過ぎてしまうと、おそらく数も、質もすり減っていくのだろう。なぜなら、新しく経験することが減っていくからだ。

 

 だから人は子供をつくるのかもしれない、と最近思うようになった。なぜならそれは、長い未来に渡って楽しみな予定を提供し続けてくれる存在だから。そのようにして私たち一人ひとりは生まれてきたのかもしれない。