変化するということ

 

 

 去年は「SHISHAMO」というアーティストの「明日も」という唄を牛丼屋でずいぶん聴いた。去年の夏は自炊をする気力を完全に喪失していてよく牛丼屋に通っていたから、おそらく聴く機会がやたらと多かったのだろう。

 そんなこともあって、邦楽プレイリストに「明日も」を入れておいたのだが。先日ランダム再生をしていると流れた。すると「…変えたくて」という言葉がずいぶん印象に残った。あとで歌詞を調べてみると、

 

 

 ダメだ もうダメだ 立ち上がれない

 そんな自分変えたくて 今日も行く

 

https://www.uta-net.com/song/223193/)

 

 

 

 という歌詞だった。SHISHAMOを貶めるつもりはまったくないが、ズバ抜けて素晴らしい言語感覚で紡ぎ出された珠玉の一行、というわけでは……なさそうである。よく言えば普遍的で、悪く言えばありきたりな歌詞だ。だがなぜだかそれが私の心にひっかかる。

 

 その歌詞を聴いて私が考えたことは、「人は、この歌で歌われているように、本当に変われるのだろうか?」という命題だった。それはあまりにも大きすぎる命題で、簡単に答えることができない。そういう巨大な疑問符に対峙した時私はいつも、デカルトが言った、「困難は分割せよ」という言葉を思い出す。それに従って、この挑戦的な思いつきを、少しずつ解きほぐしていきたいと思う。

 

 

 まず、「人が変わる」というのはどういうことを指すのだろうか。ひとつめは、外見だろう。太るとか痩せるとか、髪の毛を染めるとか、そういうことだ。「服の趣味が変わる」というのは、たしかに外見の変化ではあるが、それはどちらかといえば後述する内面の変化と定義したいので、もう少し厳密に話をすると、要するに、「外見が変わる」というのはつまり「肉体的な変化」であることがわかる。

 こちらの変化に関しては、自信を持って人は変われると言うことができる。RIZAPCMを見ればわかるが(一応、あの画像も本物だと思うから)、比較的短期間で肉体的な変化を起こすことはできるらしい。

 

 ふたつめが、内面の変化、いわば精神的な変化だ。先程述べたように、「趣味が変わる」というのは、浅めの内面の変化といえる。たとえば、モノトーンの服ばかりを好んで着ていた人が、いきなりサイケデリックな色使いの服ばかりで固めてきたら、何か内面の変化があったと考えるのが自然である。もう少し深い心の変化で言えば、おそらく「転向」も内面の変化の一種であろう。そして最も深いレベルでの心の変化は、宗教的な側面を帯びてくる。たとえば「レ・ミゼラブル」という長大な物語は、人間の心の変化というものが数十年という長い時間をかけて、しかし「起こり得る」ということを書いた小説だと言うこともできるであろう。

 たとえば日本における戦後の転向であるとか、ジャン・ヴァルジャンの改心のことを考えると、変化という語自体の基盤も少し揺らいでくる。というのも、どこからを(自発的な)変化と言い、どこからを「変形」――つまり、他人によって、力づくで(あるいは優しく、少しずつ)捻じ曲げられるような変化――「させられた」と言うか、その境界線を定めることは、案外難しそうなのである。変化「する」とも、変化「させられた」とも言える、だから、内面に関しては、「変われる」と断言できないのではないだろうか。

 

 冒頭の命題に戻ると、「人は本当に変われるだろうか?」と尋ねられたとしたら、肉体的には、イエス、精神的には、ノー、と答えるのが私の限界だ。ただ、ノーと言っても、限りなくイエスに近いノーである。私の考えでは、人間の内面が変わる時、そこには常に第三の要素が存在するのだ。逆に言えば、人間は、自分だけで自分を変化させることは絶対にできないと思っている。

 

 

 話は変わるが、最近、私はパジャマを買った。これまでパジャマという文化が存在するところで生活したことがなかったので、数千円のことだが、私にしては思い切ったことをしたと思う。というか、パジャマに「憧れ」みたいなものがあった。何となく、大人になって、自分でお金を稼いで自分で好きなものを買えるとしたら、パジャマを買おうと思っていた。それがずいぶん先延ばしになっていたのだが、最近ようやく購入した。

 すると、これが気分がよい。「寝るための服」を自分で支度しているということで得られる心の余裕みたいなものは、計り知れない。すると睡眠が充実し、生活全体が充実してきたように感じて、次に、これまでちゃぶ台一つで暮らしていたのが、急にしっかりしたテーブルが欲しくなって、ややまともなローテーブルを買った。となると次は、まともなローテーブルの前で、これまで通り、よくわからない、ちゃちい座椅子みたいなものに座っているのがだんだん耐えられなくなってくる。そしてソファを買った。こうしてようやく私の生活は完成をみた。

 

 これはまるで頭の悪い人間がどのように散財するかを絵に描いたように思われるかもしれないのだが、文脈がある。私は実は、「すこしは貯金しよう」という出発点から、この生活の変化を経験したのである。

 

 秋くらいに、すこしは貯金しよう、という心がけがなぜ生まれたのかはさておくとして、とにかくそういう気持ちになって、「自炊しよう」と思った。そこで三食自炊することにした。あれ、意外と自炊できるなということに気が付いた。それで家で過ごす時間が長くなって、家の居住環境が段々と気になってきたのだ。そうして今、年を跨いで思うことは、自分の心のありようみたいなものが、確実に変わってきているなということなのだ。

 

 ここで重要なのは、私は、私の心を変えようと、自分で心臓に(あるいは心は脳にあるのかもしれないが)手を突っ込んで変えたわけではなく、自分の周囲の環境を変えることによって、心のあり方を少しずつ変えていったということなのである。

 きっかけは「貯金しよう」と思ったことであり、これ自体、確かに内面の変化ではある。しかし、思うだけでは、精神的な変化は得られないということもまた実感したのである。「貯金しよう」と思ったのは、単なる思い付きの範囲に留まる。本当に変化したと感じたのは、半年くらい経った今だ。精神的に変わろう、もっと大きな言葉で言えば、生まれ変わろうと思ったら、自分の周囲の環境を整えていくことが重要なのだ。

 

 つまり、「自分で自分の内面を変えることができるのか」という問いに対しては、自分ではないもの、自分の周囲にあるものをまず変えることによって、その変化に呼応して自分の内面を少しずつ変えていくことができる、と答えることができそうである。

 

 よく「環境を変えてみよう」という言葉を聞く。街に出てみれば、その手の話はうなるほどある。テレビを見ていてもそうだ。メジャー・リーグに挑戦する日本人の野球選手は、よくそう言っている。それは環境を変えることで、内面を変化させたいという気持ちの表れとみることもできるだろう。

 これは何をするにあたっても、一つの視点としてかなり有効なのだろうと思う。たとえば、仕事がうまくいかない。職場を変えよう! というのは難しいだろうが、実際は、ものごとの環境というものは、何も海を渡ったり、転職したりしなくても、意外と小さいところにも宿っている。たとえばパジャマを買ってみることもそうだし、ボールペンではなく鉛筆を使ってみることもそうだし、言葉遣いを変えてみることもそうだ。気分転換が目的なのではなくて、実際のところ、内面の変化を人間は無意識に願っているのだろう。デスクの上のレイアウトを変えて見たくなるのだって、たぶんそういう心のサインなのだ。

 

 SHISHAMOの歌ったような、「ダメだ、もうダメだ、」みたいな心境からでも、人間は変わることができるのだと思う。そのためには、自分自身を見つめ直すよりも、自分の周囲を見回してみるほうが、案外有効なのかもしれない。

 

 しかし貯金しようと思った結果散財しているので、マックス・ウェーバーじゃないけど、これはこれで大いなる逆説のような気もしている。