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人はなぜ自分の思考を疑うのか?

 共時性(synchronicity)という言葉がある。ユングも真っ青になるほどざっくりした説明をすると、要するに、「偶然はただの偶然じゃないんだよ」ということである。何かしらの法則、意識の外側の力があるということらしい。
 ごく手近な例をひとつ挙げてみる。
 このあいだ書き上げた小説の主人公の名前が「夏雪(かゆき)」だった。これは単なる思いつきで付けた名前だったのだが、話が膨らんでくると「不可能の象徴」という使命を帯びるようになり、「お、なんかカッコええやん」などと自己満足に浸っていた(関係ないが私の長編小説の主人公には皆「夏」の字が入っている)。これ自体は思いつきの末路、こねくり回した屁理屈の結末とでも言うべきもので、シンクロニシティでも何でもない。
 さて、全く別の小説を書くために、図書館で「毒と薬の世界史」(中公新書)という本を借りてきて読んだ。実に興味深い本だった。読み進めていくうちにアスピリンの話になった。アスピリンの原料であるスピル酸は「セイヨウナツユキソウ」という多年草の花から採取される。「セイヨウナツユキソウ」を漢字で書くと、もちろん「西洋夏雪草」となる。
 これを読んだ時私は「おおっ」となったわけである。さてこれは完全な偶然の一致と言えるだろうか?

 

 案の定マクラが長くなったが、このような偶然はおそらくあなたの身の回りにも数えきれないほどあるだろう。私はいつか共時性を題材にした小説を書いてみたいと思っているが、それはまだ実現していない。
 さて本題だが、どうも最近、共時性というか、単なる偶然とは思えないことが私の周りに持ち上がっている。そう思うこと自体がある種の無意識(実に便利な言葉だ)のあらわれなのかもしれない。私の友人たちの思考パターンに類似が見られるのである。それは、自分の思考を疑うということだ。

 

 Aという男の友人がいる。控えめに言って、ロクでもない男だ。だが私にとってはかけがえのない友人であり、彼もアマチュア音楽家である。
 時折彼と酒を飲むのだが、まあ、だいたい女の話になる。それでお決まりの、「恋人以外の女とセックスすることについて」という話題が出てくる。それが浮気になるのかどうかという、高校時代くらいから延々と続けられてきた不毛な話題が、今は微妙なリアリティを伴って我々の前に現れている。ロクでもない話だ。

 そういう話になった場合、私は「そういうことは止めた方がいい」という立場を取る。これは何か思想的根拠があるわけではなく、単に痛い目に遭ったことがあるからだ。そう私が言うとAは――恐らく私の倍以上痛い目に遭っているにも関わらず――笑ってそれを否定する。そして私に「なぜお前はそう思うのだ」と問う。私は倫理的にまずいとか何とか言ってお茶を濁す。すると彼は鬼の首を取ったようにこう言うのである。
「いいかい本郷、倫理や道徳といったものは、作られた価値観に過ぎないのだ」
 A曰く、あくまで性に限定した話ではあるが、日本における道徳観や倫理観というものは、明治時代以降日本に流入したキリスト教的な価値観がベースになっているのだという。それを現代の我々が無批判に受け取っている、と彼は言う。彼は中学生の時にそれを疑いはじめたという。「いや、お前パワプロばっかりやってただろう」と私は言うが彼は無視する。
「本来の日本の伝統はもっと奔放な性をゆるしていたんだよ。お前だって知ってるだろう? 祭りの時には……」
 祭り! 決まって「祭り」を持ち出す男性がいる。そういう男には注意した方がいい、というのが私の個人的な偏見である。Aもその一人だ。さてAは、そのような思想的根拠――「「「「「日本の伝統」」」」」――を持ちうるのであり、それによれば、彼が複数の女性と関係するのは、本来的に間違った行為ではなく、むしろ「「「「「日本の伝統」」」」」に従っているのだという。何ら瑕疵はない、とAは言う。
 そこまで彼が言うのを私は待ち構えておいて、そういうロジックを用意していること自体が後ろめたいんじゃないか、むしろお前こそその「キリスト教の価値観」の影響を受けてるんじゃないか、要するに正当化するために「伝統」なんていう大層なものを持ちだしているんだろう、と詰る。そうして我々は唸りながら酒を飲むのである。こういうことを300回くらい繰り返している気がする。

 

 さて、それはともかく、Aはとにかく自分の思考、道徳的なもの、所与と思えることを疑ったということは確かだ。そのことの善悪について私はどうとも言えないのだが、この国のあらゆる法律は(今のところ)何かを疑うことを禁じてはいないし、思想的には健康なことではないのかなと思う。
 いや、正直に言おう。私はありとあらゆるものを疑うべきだと思うし、疑うに値するものがあまりにも多すぎる、とさえ思っている。

 

 Bの話をしよう。Bは私の大学時代の女の友人だ。私はよく彼女と二人でおしゃべりをした。彼女の恋愛の話をたくさん聞いた。彼女の話はいつもエキサイティングで、私は何時間も大学のラウンジで楽しく聞いていたものだ。
 Bは一年前に彼女の会社の同期の男と結婚した。今は実家を離れて夫婦で暮らしている。ローンを組んでマンションを買ったという。私が前にBに会ったのは一年ほど前で、ちょうど結婚することが決まったあたりの頃だった。そしてつい最近会う機会があった。
 Bが結婚してから会うのは初めてだったから、私は祝福の言葉を述べた。彼女は「とても幸せ」なのだと言った。私はそれを聞いていくらか安心した。大学時代の彼女の話はいささか色彩的すぎるというか、わりと過激なことも話題になっていたからだ。落ち着くべきところに落ち着いて良かった、と私は思った。

 

 仕事の話をしだしたあたりからおかしくなった。Bは営業の仕事をしている。「人の考えることが何でも分かるようになってしまった」と彼女は言う。彼女が久々に実家に帰ると、親の考えていること、欲している言葉や行為が手に取るように分かり、親に気を遣うようになったと言う。これは興味深い話だった。
 私は手早く分析をした。要するに、営業の仕事というのは、コミュニケーションの仕事なのだから、人の気持が分かり、先回りできるようになったということは、コミュニケーションのレベルがひとつ上がったということだ。それは――あまり好きな言葉ではないが――「スキル」が上がったということだ。そして実家を離れて彼と二人で暮らすようになり、自分が新しい「家族」、社会の最小構成単位である「夫婦」を構成したことで、実家を外から見ることができるようになったのではないか、と私は言った。
「でも時々怖くなるの」とBは言う。「相手の考えていることが分かりすぎて」
「試したくなるんだろう?」と私は言った。
「そうなの。こう言ったらどういう顔するんだろう、とか、怒るかな、とか喜ぶかな、とか。そういう予測がピタリと当たるの。だから試したくなる。ギリギリのところを」
 そういうものだよ、と私は言った。おそらく営業という仕事をしている人は、とくにBのように優秀な人材であれば、多かれ少なかれそういう全能感のようなものに苛まれることがあるのではないか、と。そういうフェーズを誰もが経験するのではないかと。ここまでは私にもよく分かる話だった。それはまだ歪みとは言えない。いくらでも塗り直せる日常の小さなひび割れに過ぎないのだ――。

 

「自分の意見というものが分からなくなる時があるの」とBは言った。「物事を客観的に見ることに慣れすぎて、主観がわからなくなったの」
 ここまで来てようやく私は、彼女が懐疑主義の泥沼に足を突っ込んでしまったらしいことに気が付いた。
「それについて、彼氏は――いや、旦那さんはどう言ってるの?」と私は訊いた。
 Bの夫は理系の出身で(私とBは文系)、悩むということをしないのだと言う。理系であることと、悩まないということにどのような相関関係があるのかは分からない。「いつも最短距離。悩んだり考えたりすることは無駄だと思ってるみたい」と彼女は言った。なるほど「オッカムの剃刀」か、と私は思ったが、説明が面倒なので(というか出来ないので)黙っていた。
「私が言っていることが、本当に私の考えなのか、私に影響を与えているものの考えなのか、分からない。本当の私の意見が分からない」と彼女は言った。
「でも、責任というものについてはどう考える?」と私は言った。
 彼女は少し考えてから、「たしかに」とだけ言った。
「自分の思考は、借り物だったとしても肯定してあげた方がいいと思う」と私は言い、「そうじゃないと生きるのが苦しくなる」と続けた。
 Bは何かをじっと考えているようだった。私はだんだん心配になってきた。
「もう一度聞くけど、君は今幸せなんだよね?」
「客観的に見て」とBは言った。「客観的に見て私は幸せだし、客観的に見て愛されていると思う」

 

 帰り際にBは、「いつか離婚しそうな気がする」と言った。
 私は、「ローンだってある、税金も保険もある、子供だってできるかもしれない。そういうものが君たちを締め付けて、そして守ってくれる」と借り物の言葉を吐いたあとで、「でも、残念ながら僕も君たちはやがてそうなると思う」と正直に言った。「そうならないように祈ってる」
 我々は笑顔で別れた。

 

 ひとつだけ余計なことを書いておくと、私はBさえも疑っている。

 

 さて、ここまで来ると、Aのインパクトが少々薄れたように感じられるかもしれないが、AもBも、そして私も考えていることは似ている。要するに、全てを疑ってしまう、そしてその中には自分の思考さえも含まれてしまっているという状態だ。
 思考を疑っている思考が存在する。すると思考を疑い出した思考さえ疑う必要が出てくる。そうなると思考の主体が存在しなくなる。監視員の監視員の監視員……。
 

 解決する方法はあるのだろうか?


「何も考えずにただ必死に生きろ」という人がいる。私の友人の中にももちろんいる。生を全うしろ。余計なことは考えるな。オーケイ、それは立派な生き方だ。そうあるべきだ。しかし考えるのを止めることができない人はどうすればいい? 息を吸うのと同じくらいの自然さで考えてしまう。死ぬことでしか疑うことを止めることができないのか?

 

 そして辿り着く。

 

 Je pense, donc je suis.
(我考える、故に我あり)

 言わずと知れたデカルトの言葉である。この言葉はひとり歩きするほど有名だが、筋金入りの懐疑主義者であったデカルトが到達した極致なのだ。だが私はむしろ、

 Je doute, donc je suis.
(我疑う、故に我あり)

 と言った方が正しいのではないかという気がする。

 Bと会ったあと、家に帰った私はブックオフオンラインで(ケチですね)「方法序説」を注文した。疑うことに関しては、まずデカルトに弟子入りするのが筋というものだろう。答えが書いてあるかどうか分からない。答えが存在するのかどうかすら分からない。


 無為と言うなかれ、私はそういう人間です。時々、私たちは生きながら哲学史をなぞっているような気がする。だとすると、オーケイ、とりあえず17世紀までは来た。それだけの話だ。