こだわりのない人間

 

 最初に入った会社の最終面接のことをよく覚えている。ある役員が発した質問で、

 

「他人が思うあなたの像と、あなたが思うあなたの像は、どのように異なっているか」

 

 というのがあった。

 

 そのときにどう答えたかは、実はまったく覚えていない。頭が真っ白だった。緊張していたわけではなく、単純に心拍数が上がっていた。なぜなら私はその、「社長がお出ましになる面接」に少し遅刻していたのだ。遅れた理由というのが、面接待ちの間、人事部の人と喫煙所でダベっていたからなのであった。他の社員が血相を変えて呼び出しに来た。そんなわけで、運動不足の私が、めずらしく急いで走ったせいで、役員の待つフロアに到着した時には、まともに物事を考える頭になっていなかったからだと思う。

 

 ともかく、どう答えたかは覚えていないけれど、上記の質問が、それとなく心のどこかに引っかかって残っている。

 


 私は自分のことを、こだわりのない人間だなと思う。

 

 
 それについて初めて考えたのは、どこかの居酒屋でビールの銘柄を聞かれた時だ。「アサヒとキリンがございますが」みたいなことを聞かれて、別にどっちでもいいや、と思ったのがきっかけだ。
 よく考えてみると、ビールなんかは、こだわる人はすごくこだわる。絶対にアサヒは飲みたくないというような人もいるし、エールが、ピルスナーが、ドラフトが(このへんの名詞の列挙が文脈に適しているかどうかさえ不明)とか。知識に止まらず、実際に飲み比べをしてみたり、工場見学に行ったり、そういう人が、けっこういるのだ。

 

 

 日本酒や焼酎に関してだってそういう人がちゃんといる。ウィスキーも然り。大変なのはワインである。
 これはもう本当に詳しい人は恐ろしいほど詳しい。「きみ、フランスに行ってたんだって?」みたいな話になると、こちらは下手にフランス通ぶっているものだから、肝を冷やす。適当に固有名詞を並べて話を収めるのがやっとである。


 そういう夜、ビールでも、ワインでも何でもいいんだけれど、しこたま飲んだ後、帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドに入って眠りにつく時、「おれって、何にもこだわりがないな」などと思ってしまう。そして何となく、そういう「こだわりのある人」のことがうらやましくなってしまう。

 

 私は、ようするに、飲んでて、おいしいなと思って、酔えて、楽しくなればそれでいいじゃないか、それ以上知らなくてもいいじゃないか、という発想である。

 


 ここまでの話であれば、「腹のわりに、舌はあまり肥えていないのだね」という結論になりそうなのだが、どうも舌だけの話ではないようなのだ。

 


 服なんかも同じものをずっと着ている。一番長かったのは父親のおさがりのダッフル・コートで、父親がいつ買ったのかはわからないが、中1から大学三年生くらいまで着ていて、ポケットに大きな穴が空いてさすがに捨てた。次に長かったのが高2の時に買ったアバクロの青いシャツで、袖が取れるまで着た。社会人になってから私服はほとんど買っていない。スーツは青山だか青島だかで三年にいっぺんくらい買って、着潰す。およそ流行やおしゃれを気にしたことがない。裸でさえなければいい、という按配だ。


 物持ちがよいと思われそうだが全く逆で、傘はすぐに壊すし無くす。だから傘はもう安いビニール傘しか買わないことにしている。

 

 


 煙草はハイライトくらいしか吸わないが、それもこだわりがあるわけではなく、コンビニがハイライトを切らしている時はセブンスターかピースにする。ごく稀に道を歩いているときにジタンを売っている店をみかけたら「おっ」と思って買うけれど、なじみの店もない。火だって、これもジッポだのマッチだのこだわる人がいるが、私は火がついて煙が出れば何でもいいと思っている。


 そうやって考えを広げていくとおよそ物体全般に何のこだわりもないということがどんどん証明されていってしまうのだが、内面はどうなのだろうか。物質的にはとくにこだわりがないとしても、内面はどうか。内面には何かこだわりがあるものを見て取れるのではないか。

 


 そう思って色々考えてみたのだけれど、そもそもが自分勝手で、自由気ままに生きている割に、意志はさほど強くなく、興味だけいたずらに広くて、普段はそうでもないクセに、ここぞという、要所要所で自分の決断を避けて流れに任せている人生を送っている気がして、どうにも中途半端な内容で、特段のこだわり、というようなものはいわゆる内面には、というか、内面にこそ見出せなかったのである。


 ここまで書いてようやく何かを見つけた気分がするのだが、要するに私の感性であるとか、対象認識であるとか、「レシーバー」的なものはガバガバで、だいたいのことを「まぁ、いいか」で済ませてしまう人間のようなのだ。よく言えば寛容、悪く言えば妥協。そこまで判っても、まぁ、いいかと思ってなかなか自分のことが嫌いになれない。


 と、自分では思うのだけれど、他の人が私を評する言葉を聞いていると、どうもべつの人の話をしているようにさえ聞こえる。
 他人から見える私の像と、私が考える私の像は、ずいぶんかけ離れているなあと感じることが多い。

 


 それでも、付き合いが長かったり、それなりに深く関係を持った人であると、この像は結構一致してくるので、そのへんに人間の不思議なところがあると思う。